【スリービルボード感想】疑念の沼【ネタバレ】

あなたは何人疑いましたか?

「誰が犯人なのか?」いつもサスペンス作品を観るようにこの『スリービルボード』を観てしまったとき、あなたはもう罠にハマっているのです。

 

みなさん、こんにちは。『スリービルボード』を観てきました。

とりあえずこの映画を観た僕の感想(考察)を書きたいと思います。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

物語の冒頭に事件が起きるとまず最初に出てくる疑問……それは「犯人は誰か?」ですよね。そのあとに出てくる人物に疑いの目を向けます。

 

登場人物をおさらいしましょう。

・ミルドレッド(フランシス・マクドーマン)

娘を殺害された母親

・ウィロビー署長(ウディ・ハレルソン

エビング署の警察署長

・ディクソン(サム・ロックウェル

エビング署の警官でウィロビーの部下

・レッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ

3つの看板を所有する広告会社の経営者

・ジェームズ(ピーター・ディンクレイジ

ミルドレッドの知人。小人。

 

登場人物もおさらいしたところで内容に戻りましょう。

典型的な物語であれば、被害者の母親ミルドレッドが犯人を追い詰め、真相にたどり着き意外な犯人に出くわすことでしょう。しかしこのミルドレッド疑わしいものは全て暴力で解決するマッドママだったのです。

そしてこの映画を観た方なら一回は疑ったであろうディクソン警官。彼もまたなんの根拠もなく(警察なのに)暴力で解決するロクデナシ警官だったのです。

この二人、本当に似た者同士ですよね。

 

一方で、ウィロビー署長はなんともすばらしい警官です。警察署内だけでなく、町中彼を尊敬しています。あんな挑発的な看板を出したミルドレッドの訴えすらも受け入れ、事件の再捜査を行います。

彼の行動は、本当に理詰めです。再捜査もちゃんと当時の事件のファイルを持ち出し(これは当たり前か笑)、妻と最後のセックスをするときもちゃんと子供に配慮し、彼が自殺する時もわざわざ妻に疑いの目が行かないようにメッセージ付きの覆面を被り死んでいきます。

彼の行動はミルドレッドやディクソンたちのように衝動的ではなく、とても理性的です。(自殺が理性的かどうかはこの作品においては一旦置いときましょう。)この物語はまさに理性の象徴であり、法の番人(警察)そのものと言えるでしょう。彼のような人間にこそ事件の犯人を追い詰める権利が与えられます。

 

いやいやディクソンも警察なんだからその権利があるでしょうというツッコミがきそうですが、よく思い出してください。広告会社の青年経営者レッドを窓へ突落したとき、彼はすでに警察官の象徴である警察バッチを失くしているのです。そして彼のバッチが再び出てくるのは、彼がレイプ犯と思わしき人物のDNAを採取してそれを届け出たときです。その”客観的な証拠”に基づく行動こそ警察のあるべき姿であるという暗示ではないでしょうか。

 

理性の象徴であるウィロビー署長が死んで以降、この二人の暴走が加速します。ディクソンはレッドを窓から突落し、ミルドレッドは看板を燃やされたことに腹を立て(なぜか)警察署を燃やします。同時このときから今まで観客に疑いの目を向けられ続けたディクソンの裏の顔が見えてきます。そしてそのディクソンさえもレッドの本当の姿に気づくのです(オレンジジュースのシーンです!)。ミルドレッドもまたディクソンが身を挺して事件の解決を手助けしてくれる姿をみることになるのです。これはディクソンやミルドレッドだけが表面的な根拠の無い猜疑心にハマっていたわけではなく、観客の私たちさえも先入観に囚われた疑いの目を登場人物に向けていたのです。

 

僕がこの作品の秀逸だと思ったところは、普段理性的に犯人探しをしていると思っている観客は、この作品においてはディクソンやミルドレッドと同じような衝動的で先入観に囚われた理性とは程遠い疑いの目で登場人物観ていたと思わせてしまうところだと思います。

 

ではこの破滅的な疑念はどのような結果を生み出したのか。

そう。彼の愛を私たちはてっきり見落としてたのです。

 

ピーター・ディクレイジ扮するジャームズの突然の告白に驚いた方も多いのではないでしょうか?彼がミルドレッドに対する愛を告白したとき、僕は彼が髪を整え、小綺麗なジャケットでしっかりきめていることに気づきました。

冷静に考えれば、彼がミルドレッドをあの状況から助けたりしたのはひとえに彼のミルドレッドに対する愛であると気づくのです。

 

「怒りは怒りを来す。」その言葉通り彼女の怒りはジェームズの愛から盲目に、彼の怒りを呼んでしまいます。なんと悲しいことか。

 

ミルドレッドやディクソンは自らの疑念の沼に陥ります。しかし、彼らは最終的には1つの方向性に一緒に進むことになります。それは「悪」と対峙することです。物語に出てきたレイプ犯と思われる男性を探しに2人は歩みを進めます。2人は確かに歪んだ善人です。しかし「悪」を倒しにいくということは善人にとっては普遍の心理であると教えてくれます。

ここで秀逸だと思ったのは、彼らは確実に殺しにいくわけではなく、「道々に決めていく」と言うのです。これは今までの出来事に二人とも懲りたわけですね。人は看板をみるように表しかみないが、その裏側はみようとしない。表面的なことに囚われいては本質はわからないと学びました。

彼らが追うレイプ容疑者に対してもちゃんと吟味して行動を起こすことに決めたわけです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

この映画で学べることは、単純なこと「人や物事の表面だけを見てそれを決めつけてはいけない。その疑念はあなたを知らず知らずの内に盲目にする。」ということだと思います。なかなか深い映画だと思いました。

 

追記:ピーター・ディクレイジが出ていたのとても興奮したのですが、彼がまた不憫な役をやってました。ゲームオブスローンズでは報われてましたが、今後映画での彼の役は不憫なものが多くなるでしょう。でもそれは現実なのです。意図せず、理不尽な不憫に見舞われいつになったら報われるか分からない人が世の中にはいるのです。ピーター・ディクレイジのような役者が公にでて映画に出てくれるようになって本当に感謝しています。彼が映画に登場した社会的な(個人的な)意義は今後書いていこうと思います。

 

ではみなさん、ごきげんよう。